地域建築資産からこのまちの歴史を紐とき 〜元気なまちに〜 |
●この蔵は、江戸時代の鉄問屋、造り酒屋「津國屋」の屋敷内の蔵でした。
●蔵の前の通りは、新見藩祖関長政侯の「寿福院」にちなんでつけられた寿福の松があり「寿福松原」(通称「松原通り」)という通りで、現在も「松原通り」と呼ばれています。 ●このまちは、江戸時代元禄11年につくられたまちです。この寿福松原は商人のまちから武家屋敷につながる通りでした。 ●このまちの歴史を紐とき、さあ新見藩の御殿町にタイムスリップ。 ここは江戸時代につくられたまち ●津山藩の森家に跡継ぎがなく、お家断絶となったのは江戸中後期元禄10年8月(1698年)です。 ●森家は美濃鵜で、織田信長に使えておりました。天正10年本能寺で信長と運命を共にした森蘭丸の弟の森忠政が津山城十八万石の初代のお殿様です。また関家も織田信長に使えておりました。そして関と森家は縁戚関係でもありました。その後も津山城森家二代目藩士は関家から養子をもらっています。 ●津山藩森家は、お家断絶で、二万石の江原藩(その後赤穂藩)、一万八千石の新見藩、一万五千石の三日月藩の三つに分けられました。 ●この時代、新見には城も家も少なく、惨憺たる野原あるのみの新開地でした。 ●元禄10年(1697)10月15日に幕府から新見藩創設の朱印状がくだされ、元禄11年関長治侯がはじめて新見に入られ、つくられたまちです。 江戸と新見は江戸時代につくられたまちです。 ここは寿福松原です。 現在の松原通りには、昭和30年頃までは通りの両側に松が植えられていました。その中で、一番大きい松が関のお殿様が植えられ、「寿福の松」と呼ばれていたものです。昭和15年に枯れて切られました。 ●この松のことが十代新見藩主関博直侯の書かれた「寿福松原記」の中に、藩祖関長政侯の「寿福院」にちなんで、寿福の松と命名されたと記されています。。 ●この寿福の松のある通りを「寿福松原」別名「松原通り」と呼ばれ、現在に至っています。 ●寿福松原の入り口付近に総門があり、寿福松原は商人のまちでした。 |
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